「ケ〆とはじめ -鶴の恩返し-」

親しみのある笑顔でママが仰いましたね。「そうよ。ここが、ない藤よ」

黒沼景子さま

 

2006年だったと記憶しています。
あの日はタクシーで京都観光をしていました。
次の目的地に向かう途中で、雰囲気のあるお店の前を通り越した時のこと。
車窓から見えたお店の、装履のディスプレイが印象的で、
そのまま通りすぎることができずに、

 

「運転手さん、ちょっと戻っていただけますか」

 

とお願いしました。

 

観光の目的には「ない藤」さんに伺うことも入れていました。でもお値段も敷居の高さも噂では聞いていたので、緊張もしていました。

 

(もしかして、ない藤さんに行かなくても、ここで素敵な装履が買えるかもしれないわ。だったら無理に行かなくてもいいじゃない)と思ったのです。

 

タクシーを降りてお店に入ってみると……。
そのお店こそが「ない藤」さんでした。

 

驚きを隠しきれず、お店の方に興奮しながらお話をしていると、奥から女将さんが笑いながら出ていらして、

 

「そうよ。ここが、ない藤よ」

 

とおっしゃいました。

それ以来、女将を「ママ」とお呼びするほど、公私共に永いお付き合いをする関係に。

 

 

最初にお見立てしていただいたのは、オーソドックスなパール色のお装履。

それから夏ものや畳表もママに見立てていただきました。

 

「畳表は高いから、外で履いちゃだめよ。ホテルで履き替えなさいね」

 

なんて茶目っけたっぷりのアドバイスを頂戴したこともありました。

 

私の還暦には、ぜひ赤い漆のお装履をと、青山での展示会の時に勧めていただきました。帰りに青山でお食事をご一緒し、いろいろとお話を伺ったことも忘れられません。

 

とにかくどのお装履にもママとの思い出がたくさん宿っています。

 

 

ママとはお電話でお話ししたのが最後になってしまいました。

毎年のようにお会いしていたのに、2年前からコロナの影響で京都に伺うことができていませんでした。

 

今日は最後に作っていただいた装履に乗って。

深みのある焦げ茶色の天に、金彩があしらわれた絞りの花緒です。

 

上品な輝きを放つこの一足も、とても気に入っています。

 

 

 

 

撮影/緒方亜衣

取材・文/笹本絵里