「ケ〆とはじめ -鶴の恩返し-」
「yoshie inaba」デザイナー 稲葉賀惠先生
鶴子さんと出会う少し前のことです。
プライベートで京都へ行った時のこと。
ある芸妓さんが、台と花緒どちらも赤い地色に黒漆で模様が描かれた印伝のぞうりを履いていて、とても素敵だなと思って眺めていました。
「あんたはん、こういうのええんやない」
当時、お世話になっていた旅館の女将さんから言われました。
素敵だと思ったはきものです。
すぐさま女将さんにどこで買えるのかと尋ねたら、「ない藤」さんだと教えてくれました。
すぐにお店まで行ったのだけど、まあ入りにくくて……。
私にとって、京都は大好きだけれど、ちょっと怖い場所。
京都は“世界の京都”だと思っています。
街並み、建築物、食、工芸品、遊び……。
それらすべてが学びで、行くたびに教養が増えるかの街は、私にとって大学へ行くような場所でした。
けれどその一方で、西と東の文化や思想の違いで、辛い思いをしたことも。
だからお店の前で躊躇ってしまったの。
けれどぞうりのことが諦めきれず、
当時、雑誌「ミセス」で私の好きなものを紹介する連載ページを持っていたので、編集部から改めて「ない藤」さんに取材依頼をしてもらいました。
念願叶ってお店に伺い、そこで鶴子さんと初めてお会いしました。
お互い40代だったと思います。
私は背が高いから、表畳もなるべく低くして欲しいとお願いをしました。
鶴子さんも長身でいらしたから理解してくれたようで、とても親切にしてもらいました。
気さくで親切で話しやすくて。
最初から彼女のことが大好きになりました。
その後も何度かお会いして、ぞうりや着物のことをたくさん相談させてもらったのを覚えています。
親交が深まると、京都の人っぽくないな、と思うことがしばしばありました。
今回、鶴子さんとの思い出をお話しする前に、誠治さん、久仁美さんたちから初めて神戸出身だとうかがって納得しました。
私は横浜で彼女は神戸。
どちらも港町出身で、幼少期は洋館で過ごし、おしゃれが大好きで。
生い立ちが似ていたのですね。
なんだか同じような風通しの良さを感じていたの。
でも京都の人というだけで身構えてしまっていたのよ。
ファッションのことや、俳優さんや映画の話、学生時代のこと……。
もっと早くに知っていたら、共通の話題はきっとたくさんあったのに。
鶴子さん、貴女ともっと色々なお話しがたかったわ。
稲葉先生が雑誌「ミセス」で連載を始めた第一回の号から持っていたほど、母は先生にお会いする前から大ファンでした。初めてお店にいらしたこの日は、それはもう大興奮でした。ずっと私たちに「聞いてくれる!?それでね……」と喜んで話していました。
母は50歳からきもの生活を始めるまで、先生のお洋服も好んでよく着ていました。「MOGA」のブティックには、よく二人で出かけたことを覚えています。
母は京都にいながら、フリルの襟が付いたブラウスやロングスカートが大好きで、人の目なんて気にせずに着ていました。歩くとひらひら〜とするので、私は母に「ヒラヒラさん」というあだ名をつけて呼んでいました。
とにかく自由な人でした。父は“ザ・京都”という対極的な人でしたが、母のことはかなり甘やかしていました。だからわたしたちは京都で育ったけれど、母のおかげで自由に育ててもらえたなと思います。
長女・久仁美