「ケ〆とはじめ -鶴の恩返し-」

僕が偶然お店に入ったんだと思うんです。

詩人 高橋睦郎先生

photo: Jorgen Axcelvall

 

 

あまり記憶が定かではないんですけれど、女将さんとの最初の出会いは、僕が偶然お店に入ったんだと思うんです。

 

そこで僕がはきものことを、しゃべったか伺ったかしたら、

 

「あなたの考え方、間違っています。はきものについてのご認識をお改めください」

 

と正されたんですよ。

ああ……怖い方だなと思ったんですね。

その時は、僕よりずっと歳上の方だと思いましたよ。

 

だから鶴子さんとの出会いは、怖いお姉さんかおばさんに叱られた、みたいな感じだったと思うんです。

 

でも僕、そのとき頑張って酒袋表のはきものを求めたんです。

たいそう履き心地がよくてね。今でもずっと履きつづけていますよ。

 

それからほんとうに久しぶりにお店を覗いたら、ご子息の代になっていたの。

 

それで鶴子さんが、お店の奥からチラッと出ていらしてご挨拶をしました。

その時はね、もうすっかりと楽隠居さんのような感じでした。

 

初めて会った時から四半世紀は経っていたんじゃないかな。

 

ところがですよ。

その後に一昨年でしたっけ、九段ハウスでお会いしたらね、逆にうんと若くなってお嬢さんになっていらしたの。

 

お客様に囲まれておしゃべりなさっていて。
昔のお嬢さん、女学生のようなういういしさ、華やかさがありましたね。

 

神戸の異人館の自由な空気の中から京都の商家に嫁がれて、どれだけ大変だったかと思うんですよ。

 

そこで苦労されて一所懸命に女将さんになられたんだと思うんです。

 

だから最初は多少、無理して厳しい女将さんを演じていらしたんでしょうね。
で、途中がご隠居さんで、そして最後はお嬢さんに戻っていてね。

 

時間が逆転したような、そういう不思議なご婦人でしたね。

 

それが僕の鶴子さんの像です。

 

 

 


 

 

 

高橋先生と出会ったころは、教えられたものをなんとか自分のものにせなあかんし、言わなあかんと思ってたんやろうなあ。

 

母の父親は、京都大学の文学部で万葉集の研究をしていた人でした。

“鶴子”という名も、

「若の浦に 潮満ちくれば潟をなみ 葦辺ををさして鶴(たづ)鳴き渡る」

巻6-919 山部赤人

の和歌が由来になっているほど、詩は彼女にとって常のものでしたから、高橋先生のことは当然存じ上げていたのに。まさか偶然にお店に入ってきた男性が、高橋先生とつゆも知らずにピシャリと言ってしまうとは……。

お母さんらしいなあ。

その後、先生が私の代になっても懇意にお付き合いしてくださっていたことを、母はいたく喜んでいました。

 

「お店をしなくちゃいけない」

 

嫁いですぐのころから、先代の内藤道義から「ああしなあかん、こうしなあかん」と言われていたんだと思います。神戸生まれの自由なお嬢さんとしては、「これ可愛いな、綺麗やな~」という方が本人らしさだったはずなのに。

 

彼女にとって、京都の環境は窮屈だったり、不自由を感じた時があったかもしれません。けれど、そんな時代を経験することで、最期は本来の姿に戻れたんやろうと思います。

 

「時間がひっくり返ってる」とお話いただけたことは、とても腑に落ちましたし、息子としても嬉しい気持ちにさせていただきました。

 

長男・誠治